ムンド(Mundo)こと、エドムンド・スアレス・デ・トラバンコ(Edmundo Suárez ,de Trabanco 1916年1月22日 - 1978年12月14日)は、スペイン出身の同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(FW)。バレンシアCFの歴代最多得点者である。
来歴
選手
強靭な身体と不屈の意志を持ち、1940年代に黄金期を築いたバレンシアCFの中心選手であった。エピファニオ・フェルナンデス、アマデオ・イバニェス、ビセンテ・アセンシ、ギジェルモ・ゴロスティサなどとともに構成された攻撃陣はDelantera Eléctrica(デランテーラ・エレクトリカ、電撃フォワード)と呼ばれた。バレンシア在籍時には1試合あたりの得点率0.92という高い得点力を誇り、1941-42シーズンには27得点で、1942-43シーズンには28得点でそれぞれ得点王(ピチーチ賞)に輝いた。1950-51シーズンには同じプリメーラ・ディビシオンのCDアルコヤーノに在籍し、1951年に現役引退した。1941年12月28日のスイス戦でスペイン代表デビューし、3試合で3得点を挙げている。
指導者
1963年にやはりバレンシアのレジェンドのひとりであったパシエギートに代わって古巣バレンシアの監督に就任した。1963-64シーズンのリーグ戦では前年度を上回る6位でシーズンを終え、インターシティーズ・フェアーズカップでは決勝でレアル・サラゴサに敗れたものの、準優勝を果たした。これらの好成績によって留任したが、1964-65シーズンはリーグ戦4位に留まり、ムンドは退任してサビーノ・バリナガ監督に交代した。しかし、バリナガ監督政権下の1965-66シーズンは9位に終わったため、1966年に再びムンドがバレンシア監督に就任し、1966-67シーズンのコパ・デル・レイでは決勝ではアスレティック・ビルバオを2-1で破って優勝した。1968年10月13日、成績不振によってバレンシア監督を退任した。
タイトル
選手
- プリメーラ・ディビシオン (3) : 1941-42, 1943-44, 1946-47
- コパ・デル・レイ (2) : 1940-41, 1948-49
- ピチーチ賞 (2) : 1941-42, 1943-44
指導者
- コパ・デル・レイ (1) : 1966-67
個人成績
クラブ | リーグ |
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 |
1939-40 | バレンシアCF | プリメーラ | 20 | 14 |
1940-41 | 22 | 21 |
1941-42 | 25 | 27 |
1942-43 | 22 | 23 |
1943-44 | 26 | 28 |
1944-45 | 21 | 17 |
1945-46 | 25 | 20 |
1946-47 | 10 | 10 |
1947-48 | 11 | 5 |
1948-49 | 22 | 19 |
1949-50 | 6 | 2 |
通算 | 210 | 186 |
1950-51 | CDアルコヤーノ | プリメーラ | 21 | 9 |
通算 | 21 | 9 |
キャリア通算 | 231 | 195 |
外部リンク
- Mundo in www.lfp.es
- Profile