ムハンマド・アリー・シャー
ムハンマド・アリー・シャー Muhammad Ali Shah | |
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アワド王 アワド藩王 | |
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在位 | 1837年 - 1842年 |
戴冠式 | 1837年7月8日 |
別号 | ナワーブ パードシャー |
出生 | 1777年 ラクナウ |
死去 | 1842年5月7日 ラクナウ、ファルハート・バフシュ宮殿 |
埋葬 | ラクナウ、 フサイナーバード・イマームバーラー |
父親 | サアーダト・アリー・ハーン2世 |
宗教 | イスラーム教(シーア派) |
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ムハンマド・アリー・シャー(ヒンディー語:मुहम्मद अली शाह, ウルドゥー語:محمّد علی شاہ, Muhammad Ali Shah, 1777年 - 1842年5月7日)は、北インド、アワド藩王国の君主(在位:1837年 - 1842年)。
生涯
1837年7月7日、甥のアワド藩王ナーシルッディーン・ハイダル・シャーが死亡したことにより、叔父であるムハンマド・アリー・シャーが藩王位を継承した[1]。
ムハンマド・アリー・シャーは即位したとき、60歳を超していたが、彼はその才覚を見せ、財政の見直しと軍事費の削減に成功している。
また、ムハンマド・アリー・シャーは建築事業にも力を入れ、1838年からはフサイナーバード・イマームバーラー(英語: Chota_Imambara)の建設を始めた。
1842年5月7日、ムハンマド・アリー・シャーは死亡し、息子のアムジャド・アリー・シャーが藩王位を継承した[2][3]。彼はフサイナーバード・イマームバーラーの完成を見ることはなかった。
出典・脚注
関連項目
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アワド太守 | サアーダト・アリー・ハーン1722/24-1739 / サフダル・ジャング1739-1754 / シュジャー・ウッダウラ1754-1775 / アーサフ・ウッダウラ1775-1797 / ワズィール・アリー・ハーン1797-1798 / サアーダト・アリー・ハーン2世1798-1801 |
アワド藩王 | サアーダト・アリー・ハーン2世1801-1814 / ガーズィー・ウッディーン・ハイダル・シャー1814-1827 / ナーシルッディーン・ハイダル・シャー1827-1837 / ムハンマド・アリー・シャー1837-1842 / アムジャド・アリー・シャー1842-1847 / ワージド・アリー・シャー1847-1856 |
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