中村三之丞

中村 三之丞なかむら さんのじょう生年月日 1894年9月18日出生地 日本の旗 日本 京都府没年月日 (1979-07-08) 1979年7月8日(84歳没)出身校 早稲田大学政治経済科卒業前職 大蔵大臣秘書官所属政党 (立憲民政党→)
(議員倶楽部→)
日本進歩党→)
(民政旧友会→)
新政クラブ→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党
日本の旗 第22代 運輸大臣
内閣 第1次岸改造内閣在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日
選挙区 (京都1区→)
旧京都1区当選回数 8回在任期間 1932年2月20日 - 1945年12月18日
1953年4月19日 - 1960年10月24日
1960年12月21日 - 1963年10月23日テンプレートを表示

中村 三之丞(なかむら さんのじょう、1894年明治27年)9月18日[1] - 1979年昭和54年)7月8日)は、日本政治家

運輸大臣衆議院議員を歴任。

来歴・人物

京都府出身。1918年早稲田大学政治経済科を卒業。大蔵大臣秘書官等を経て、1932年立憲民政党公認で第18回衆議院議員総選挙に出馬し当選した。以後通算当選8回。1937年第1次近衛内閣大蔵参与官となる。戦前は永井柳太郎に近く、1940年新体制運動に際しては民政党が解党する前に永井らと民政党を離党、大政翼賛会に合流した。政党解消後は翼賛議員同盟には参加せず中間派の議員倶楽部に所属したが、1942年翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として立候補し当選した。そのことが原因となり、戦後日本進歩党の結成に参加するものの公職追放となった。

追放解除後、旧民政党系の追放解除組の政治家によって結成された民政旧友会に参加。同会が2つに分裂した際は国民民主党と合同して新党結成を目指した新政クラブに所属した。1953年改進党公認で第26回衆議院議員総選挙に立候補して当選し政界に返り咲き、日本民主党を経て保守合同により結成された自由民主党に参加した。自民党では松村・三木派に所属し、衆議院社会労働委員長を経て1957年第1次岸内閣改造内閣に運輸大臣として入閣。1960年第29回衆議院議員総選挙では次点だったが、同じ選挙区の水谷長三郎の死亡にともない繰上げ当選。1963年第30回衆議院議員総選挙に落選して政界引退。1979年7月8日、85歳にて死亡。

民政党の親軍派政治家として知られた戦前とは対照的に戦後はリベラルな立場をとり、公職追放解除後は旧民政党系左派の松村謙三粟山博小山邦太郎鶴見祐輔川崎末五郎松浦周太郎らと行動をともにした。真面目な勉強家で、財政及び選挙制度に詳しい事でも知られていた。なお吉本新喜劇の作家・中村進は三之丞の息子である。

著書

  • 『インフレーションへの警告』
  • 『英国の総選挙』
  • 『近代都市政治論』
  • 『日本戦時財政経済』

脚注

  1. ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、3頁。

外部リンク

  • 中村三之丞
公職
先代
宮沢胤勇
日本の旗 運輸大臣
第22代:1996年
次代
永野護
議会
先代
新設
日本の旗 衆議院社会労働委員長
1955年
次代
佐々木秀世
日本の旗 運輸大臣 (1957年-1958年)
統合前
運輸大臣
建設大臣
建設院総裁
建設大臣
北海道開発庁長官
国土庁長官
統合後
2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。
京都府の旗 旧京都1区選出衆議院議員(1947年 - 1993年) 国会議事堂
定数5
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
↓:途中辞職、失職など、↑:繰り上げ当選。
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