佐竹義俊

曖昧さ回避 実業家の「佐竹義利」とは別人です。
 
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佐竹義俊
時代 室町時代
生誕 応永27年(1420年
死没 文明9年11月24日(1477年12月29日
改名 義頼→義俊
別名 通称:五郎、右京大夫
官位 伊予守
氏族 佐竹氏
父母 父:佐竹義人、母:源姫(佐竹義盛の娘)
兄弟 女(結城光久(持朝)室)、義俊上杉実定、戸村義倭[1]、小野義盛[2]、義経
小山大膳大夫広朝の娘
義治、天神林義成、宇留野義公、宇留野存虎[3]、戸村義易[4]
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佐竹 義俊(さたけ よしとし)は、室町時代武将佐竹氏第13代当主。伊予守。初名は義頼(よしより)。

佐竹義人嫡男。生母は源姫(佐竹義盛の娘)。弟に上杉実定上杉憲実猶子)、戸村義倭(戸村氏祖)、小野義盛。子に義治、天神林義茂、宇留野存虎、戸村義易[4]がいる。

略歴

永享9年(1437年)に父義人から家督を譲られていたが、実権は父が握っていた。しかも弟の実定を寵愛した父に疎まれ、享徳元年(1452年)に実定と組んだ江戸通房山入祐義によって太田城から追放された。

外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼り、大山城に移る。

弟と父の死後、応仁元年(1467年)に甥の義定を追放し、義俊は嫡男義治と共に太田城に返り咲いた。

文明9年(1477年)11月24日に死去。

当時の佐竹氏は混乱していたため、義俊本人の詳細な事績には不詳な点が多いが、佐竹氏本家の混乱が庶家佐竹山入家の跳梁や新たに勃興した江戸氏(常陸江戸氏)の台頭を許す結果になる。

脚注

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  1. ^ 初め南姓を称し、後に戸村姓となり、家臣となる。
  2. ^ 初め小野岡姓を名乗り、後に小野姓に改めた。
  3. ^ 僧名は天鳳。幼くして出家したが還俗後、山入氏義に殺害された。子孫は宇留野姓を名乗る。
  4. ^ a b 叔父戸村義倭の養子

参考文献

  • 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 佐竹氏」『寛政重修諸家譜。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577323/31 国立国会図書館デジタルコレクション 
五本骨扇に月丸紋佐竹氏第13代当主(1437年 - 1477年)
宗家

分家・支流

式部少輔家
壱岐守家
岩崎分家
北家
東家
南家
  • 義里
  • 義尚
  • 義種
  • 義章
  • 義著
  • 義敞
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  • 義以
  • 義良
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  • 義惇
  • 義宏
西家