城島健司

城島 健司
阪神タイガース選手時代
(2010年5月25日 阪神甲子園球場
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 長崎県佐世保市相浦
生年月日 (1976-06-08) 1976年6月8日(47歳)
身長
体重
182 cm
89 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手一塁手
プロ入り 1994年 ドラフト1位
初出場 NPB / 1995年5月31日
MLB / 2006年4月3日
最終出場 NPB / 2012年5月9日
MLB / 2009年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗 日本
五輪 2004年
WBC 2009年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
2004 野球
ワールド・ベースボール・クラシック
2009

城島 健司(じょうじま けんじ、1976年6月8日 - )は、長崎県佐世保市相浦出身の元プロ野球選手捕手内野手、右投右打)。

概要

ドラフト1位で福岡ダイエーホークス(後の福岡ソフトバンクホークス)に入団。その後、シアトル・マリナーズ阪神タイガースで捕手として活躍。

正捕手としてNPBで、3度のリーグ優勝、2度の日本シリーズ優勝、日本代表では1度のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝に貢献。2009年のWBCでは正捕手として日本代表に貢献している。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。

2012年、阪神タイガースで現役引退。

引退後は釣り関係のTV番組に専ら出演した他、タレントとしても活動した後、2020年より福岡ソフトバンクホークス球団会長付特別アドバイザーに就任[1]

経歴

プロ入り前

4歳の時、読売ジャイアンツ王貞治引退試合で挨拶しているVTRを見てプロ野球選手に憧れ、小学4年の時に少年野球チームに入って捕手を務めた。中学3年の時にプロOBによる野球教室で王に褒められ、また冗談半分ながら巨人入りを勧められたことで巨人へ入団したい気持ちが高まった。

別府大学附属高等学校では、強肩を見込まれ捕手に指名された。この時から「自分は捕手をやるために生まれた。それが宿命」と考えるようになり「これまでにない、打って守って走れる捕手」を目指す決意を固めた。高校では1年生時から4番打者として起用され、高校通算70本塁打を記録した[2]1993年秋季九州大会に進むが、1回戦で鹿児島商工に敗退。翌1994年夏も県予選で敗れ甲子園への出場はならなかった。

城島は巨人入りを見据えて東都大学野球リーグで力をつけることに決め、いち早く獲得に動いた駒澤大学への推薦入学を取り付けてプロ入り拒否を表明[3]。しかしそれ以前にはプロ入りを希望していたことや、巨人・西武ライオンズ福岡ダイエーホークスの3球団を志望しているものの逆指名できない高校生であることから、本心は進学ではなくプロ入りだと読んだダイエーの根本陸夫代表取締役専務は、1994年度ドラフト会議の前日である1994年11月17日に行われた12球団スカウト会議の中で、1位での強行指名を宣言[4]。アマ球界との摩擦を恐れたコミッショナー事務局が警告したものの、当時100年に一人の逸材と言われた小野仁のみがアマチュア凍結選手となり城島がもれたことから指名も制度的に可能となり、ダイエーは宣言通り1位指名。城島本人も、憧れの王貞治がダイエーの次期監督に内定していることを知り、1994年11月22日に監督に就任した王から要請されたことでダイエー入りを決めた[4]

この件をきっかけに、プロ入り拒否の選手はドラフト会議で指名できないルールが定められた[5]。また、この強行指名がなければ城島の野球人生は全く違うものとなっていた可能性が極めて高い。

ダイエー・ソフトバンク時代

入団当初、打撃においては非凡さを見せていたが、ワンバウンドの投球を捕球することができず身体が投球から逃げ、ほとんどが暴投もしくは捕逸になる状態であるなど捕手としての評価は低かった。入団当時バッテリーコーチを務めていた達川光男を始め、野村克也森祇晶からも「キャッチャーに向いていない」という声が上がった。特にリード面は達川が「素人以下」と一刀両断するほどであった[6]。周囲も捕手にこだわる必要性を感じておらず、一時は監督の王も内野手にコンバートする意向を示し、後に実際に一軍の公式戦で一塁を守ることもあった。

1995年は首脳陣の方針により二軍スタートだったが、5月31日の対オリックス・ブルーウェーブ9回戦(福岡ドーム)で代打として一軍初出場。7月9日の対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)ではエリック・ヒルマンからプロ初安打を放ち、同時にプロ初打点も挙げた。7月14日の対オリックス17回戦(福岡ドーム)では8番捕手としてプロ初スタメンを果たした。一方、本塁打は1本も打てず、二軍のウエスタン・リーグでも1本だけだった[2]

1996年は開幕から二軍で英才教育を受け、8月24日に25本目の本塁打を放ってウエスタン・リーグ新記録を達成。9月3日に一軍昇格し、翌年以降をにらんで残り試合のほぼ全てでスタメン起用された。9月10日の対近鉄バファローズ21回戦(福岡ドーム)では久保康生から一軍初本塁打を記録。オフには吉武真太郎らとともにハワイ・ウィンターリーグに派遣された。

1997年開幕より一軍に定着。オールスターゲームファン投票では、戦後生まれでは最年少となる21歳45日で捕手部門1位に選出された。同年は初めて規定打席に達し打率.308(リーグ5位)を記録、21歳での捕手3割打者としては1944年阪田清春(20歳)に次ぐ年少記録だった[7]工藤公康武田一浩の左右エース投手、バッテリーコーチの若菜嘉晴の公私共の支え、ロッテから移籍したベテラン田村藤夫の教えもあり、以後不動の正捕手となった。工藤と武田に教えを仰ごうと、遠征中の宿舎で深夜に就寝している2人の部屋に押しかけたこともあった。特に工藤からは、試合中の配球についてたびたびマウンド上で問い詰められたり、イニング交代中のベンチ前で説教されるなど徹底した指導を受け、後に「あれがあるから今の自分があるという気がする」、「工藤さんには本当にいろんなことを教えてもらった」と述べている。これに対して工藤は「僕が育てたんじゃなくて彼が自分で育った」、「どれだけ厳しく叱っても食らいついてくる強靭な精神力が彼にはありました」と語っている。若菜は天神の繁華街で交差点に城島を立たせ「そこを通る女性がどこの店に行くかを考えろ」と観察力のトレーニングを付けるというユニークな指導を行った[6]

1998年は前年の活躍もあってか打撃面でも徹底的にマークされ、122試合に出場したものの100安打を打てず打率.251と低迷した。だが、チームは長年続いた不振を脱して南海からダイエー譲渡後10年目で初となるAクラス入りを果たし、3位となった。

1999年4月30日、城島のダイエー入りに大きな影響を与えた球団社長の根本が死去。城島は根本への恩返しとして日本一になることを誓った。初の全試合出場(この年は135試合制)を果たし、リーグ3位の打率.306を記録するなど、球団初のリーグ優勝・日本シリーズ優勝に大きく貢献し、リーグ優勝が決定した瞬間には号泣した。この年、工藤は城島に対し「今年1年間お前が出すサインには一切首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と言っていた。この年、工藤と城島のバッテリーで最優秀バッテリー賞を受賞したが、会見の席で工藤から「まだまだ下手」と一蹴され、それに対して城島は「来年も工藤さんとこの賞が取れると信じてますけど、どうやら工藤さんにその気がないみたいなので来年は別の人と取りたい」と答え、場内の笑いを誘った。工藤はシーズン終了後、FAで巨人へ移籍。

2000年は4月13日の対西武ライオンズ3回戦の8回の守備でファウルチップを受けて右手指を骨折[8]し、84試合の出場にとどまったが、7月17日の対日本ハムファイターズ戦では3-3の同点の9回二死二塁の打席で岩本ツトムからサヨナラ安打[9]、9月2日の対オリックス戦では4-4の同点の延長10回二死無走者の打席で平井正史からサヨナラ本塁打[10]を放ち、チームはリーグ2連覇を果たし日本シリーズに出場。日本一は逃したがシリーズタイ記録となる4本塁打を放つなど活躍した。この本塁打には師匠である工藤公康も含まれる。同シリーズ敢闘賞を受賞。この年の秋に入籍。

2001年は4月13日の対オリックス3回戦の9回に史上15人目で17度目の1イニング2本塁打を記録[11]。この試合では6回にも本塁打を打っており、グリーンスタジアム神戸での1試合3本塁打は史上4人目であった。シーズン通算の打率はリーグ28位の.258と低迷したが、本塁打は自身初の30本越えとなる31本塁打(リーグ9位)を記録。捕手の30本以上は史上5人目であった。この年は小久保裕紀がリーグ4位の44本塁打、松中信彦がリーグ6位の36本塁打、井口資仁がリーグ12位の30本塁打を記録し、30本塁打を放った打者が同一チームに4人というパシフィック・リーグ初の記録になった。また、4人全員が日本人選手だったのはプロ野球史上初であった。

2002年、シーズン途中に守備についている際に打球を鎖骨に受け骨折。城島の故障の穴埋めのため、日本ハムファイターズから移籍してきた田口昌徳が加入。また、福岡放送夢空間スポーツ」では、城島がゴルフ好きであることから、骨折した鎖骨を固定していたチタンボルトをパターの一部にして城島にプレゼントした。本塁打はリーグ12位の25本を記録。打率もリーグ10位の.293で3年ぶりにリーグトップ10に返り咲いた。

2003年には「地味なキャッチャーの時代は終わりました。子どもたちに夢を与えるスーパーキャッチャーになりたい」と抱負を語り[2]、自主トレーニングの際には3割・30本塁打・30盗塁・100打点を公言した[12]。4番の小久保が開幕前にケガで離脱し、この年の開幕戦は松中が4番、城島が5番を務めた。それからシーズン終了までほぼ城島が5番に座ったが、一時期は4番を務めることもあった。7月27日の対オリックス戦では仰木彬と並ぶリーグタイ記録となる1試合6安打を記録。リーグ6位の打率.330、リーグ3位の34本塁打、リーグ2位の119打点を記録。特に打点は、最終戦で松中に逆転を許すまではリーグ1位であった。松中、井口、ペドロ・バルデスとともにプロ野球史上初の「同一チームで100打点打者が4人」という記録を作り、チームの3年ぶりのリーグ優勝に貢献するとともにMVPにも選出された[13]。捕手のパ・リーグMVPは野村克也以来30年ぶり2人目。日本シリーズでは後に移籍することになる阪神タイガースと対戦。2000年の日本シリーズに続き、長嶋茂雄以来史上2人目となるシリーズ2度目の4本塁打を放ち、チームの日本一に大きく貢献した。この年放った34本塁打は全て右投手から打ったもので、シーズン中は左投手から1本も打てなかったが、4本塁打を放った日本シリーズでは第1戦に井川慶、第7戦にトレイ・ムーアから打った。これについては、当時のパ・リーグには一流の左投手と呼べる存在がおらず、レギュラーシーズン中は対右投手用の打撃練習を徹底しておいて、シリーズ前になってから当時のセントラル・リーグを代表する左投手である阪神の井川、ムーア、下柳剛ジェフ・ウィリアムス吉野誠らとの対戦をにらんで対左の打撃に集中していたことを『GET SPORTS』などの取材で明らかにしている。シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場し、日本代表の4番を務めた。

2004年6月1日に通算1,000本安打を達成した。出場939試合目での達成は、捕手では1952年土井垣武に並ぶ最速記録となった。夏にはアテネオリンピックの本選に日本代表として出場し、4番打者・正捕手として活躍。チームは銅メダルを獲得した。8月27日にアテネから帰国した成田空港からタクシーで直接西武ドームに向かい、代打で出場したが左飛に終わった[14]。最終的に、捕手シーズン打率パ・リーグ新記録となる.338(リーグ3位)を記録。オリンピック前までは打撃3部門すべてにおいて松中信彦と熾烈なタイトル争いをしていたが、オリンピックによる離脱もあり、タイトル獲得はならなかった。チームはレギュラーシーズンを1位で突破[注 1]し、西武とのプレーオフに出場。初戦は石井貴、第3戦は張誌家、最終第5戦では松坂大輔から先制本塁打を放つなどプレーオフ計3本塁打を放つ活躍をしたが、守備面では第2戦先発の和田毅、第3戦先発の斉藤和巳が崩れるなど投手陣のリードにはやや苦しみ、チームは第5戦で敗れリーグ連覇を逃した[15]

チーム名が福岡ソフトバンクホークスへ変わった2005年には、6月4日に通算200本塁打を達成。 第2戦のオールスターでは工藤と対決し、ホームランを打っている。

しかし7月中旬に右肩痛を訴え離脱。その後8月28日にスタメン復帰したが、9月22日の対ロッテ戦で自打球を左スネに当て全治2か月の骨折を負い、残りの試合には出場できなかった。プレーオフに敗退した際、ベンチで泣き崩れる的場直樹に対し「胴上げをよく見てその悔しさを心に留めておけ」と言葉を掛けた[16]。この年、怪我に苦しみながらも通算4,000打数を達成。この時点での通算打率.299は捕手としてプロ野球歴代1位となった。

オフにはアラン・ニーロを代理人としFA権を行使。

マリナーズ時代

シアトル・マリナーズ選手時代(2007年)

2005年11月22日に3年1,650万ドルでシアトル・マリナーズと契約を結んだ。

2006年、4月3日のロサンゼルス・エンゼルスとの開幕戦(セーフコ・フィールド)に7番捕手として初出場し、MLB史上初の日本人捕手となった。本拠地で打席に入る際の曲にはジミ・ヘンドリックスの「Hey Joe」を使用(入団の際にはTV番組『笑点』のテーマを登場曲の候補の1つに上げていたこともあった[17])。バートロ・コロンから第2打席にメジャー初安打を本塁打で記録。デビュー戦での本塁打は松井稼頭央に続き日本人史上2人目となった。続く4日の対エンゼルス戦では、チームでは1984年アルビン・デービス以来となるデビュー戦から2試合連続本塁打を記録した。9月15日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦(カウフマン・スタジアム)から打順は3番に定着。19日の対テキサス・レンジャーズ戦(アメリクエスト・フィールド・イン・アーリントン)では、日本人メジャーリーガーの1年目としては松井秀喜を上回り最多となる17号本塁打、25日の対シカゴ・ホワイトソックス戦(USセルラー・フィールド)では、マリナーズの捕手としては最多記録と並ぶ18号本塁打を記録。シーズン最終戦となる10月1日の対レンジャーズ戦(セーフコ・フィールド)では最終打席で1962年バック・ロジャースのア・リーグ新人捕手シーズン最多安打記録146を44年ぶりに更新する安打を放った。最終的に新人の日本人選手としては2001年のイチローに次いで2位となる打率.291, 同最多かつ1996年のダン・ウィルソンと並び新人での球団史上最多となる18本塁打、76打点、同1位のOPS.774を残した。新人野手としてはリーグの本塁打と打点部門でトップの成績だったが、新人王争いの投票では投手3人に続く4位に終わった。

オフには城島の苦悩を描いたエピソードがテレビ放送や新聞の連載で紹介されたが、「これまでと違う言語で新しい投手たちとコミュニケーションを図ることに努力しながらこれだけの打撃成績を収めたのは我々の脳裏に強く焼き付いた」という『USAトゥデイ』紙を始め、数々のメディアで賞賛された[18]

2007年は135試合に出場し、打率.287, 14本塁打、61打点、OPS.755を残し、守備率(863守備機会で.998)と盗塁阻止率 (.465) では両リーグトップを記録したが、捕手防御率 (CERA) 5.08は両リーグワースト2位であったため、高い盗塁阻止率にもかかわらず守備防御点は-7だった。7月3日の対カンザスシティ・ロイヤルズ戦では右手甲に打球を受け負傷したが、2000年に骨折した際に埋め込まれていた金属プレートのおかげで、再度の骨折を回避できた[19]。オフにはCBSスポーツの捕手ランキングではホルヘ・ポサダビクター・マルティネスラッセル・マーティンジョー・マウアーに次ぐ5位に入り、"2007 This Year in Baseball Award" の "Defensive Player" 部門に捕手で唯一ノミネートされた。

打席に立つ城島(2008年)

2008年スプリングトレーニングで18試合の出場で打率.321, 2本塁打、OPS.836と例年以上の好成績を残し、4月25日には3年2,400万ドルで契約を延長[20]。しかし前半戦打率.213, OPS.549と打撃不振に陥ったことに加え、投手陣がジェイミー・バークに信頼を置き始め、首脳陣も当時有望株だったジェフ・クレメントのテストを始めたこともあり、一塁手へのコンバートも噂された。8月10日にレギュラーを剥奪されたことが報道されたが、9月はクレメントが膝の手術でシーズンを終えたため、再びレギュラーとして起用された。最終的に112試合出場、自己最低となる打率.227, 7本塁打、39打点、OPS.609に終わり、翌年から3年総額26億円の高額な契約を結んでいたこともあって、ESPNの選ぶア・リーグの "Least Valuable Player"(MVPの逆、「最も価値の低かった選手」)に選出された[21]

2009年は開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会では全試合にスタメン出場し、9試合で30打数10安打(打率.333)、1本塁打・4打点・1盗塁・4得点で日本の2大会連続2度目の優勝に貢献した。

シーズンでは正捕手としてスタートしたが、4月16日に右太股裏の肉離れで15日間の故障者リスト入り、5月26日に左足親指骨折で2度目の故障者リスト入りするなど序盤は怪我に見舞われた。また城島が不在の間に新人のロブ・ジョンソンが投手陣の信頼を集め、城島の復帰後もフェリックス・ヘルナンデスジャロッド・ウォッシュバーンエリック・ベダードの先発三本柱はジョンソンと組んだため、出場機会が激減。後にウォッシュバーンは移籍、ベダードは怪我で離脱したが、三本柱の先発した65試合のうち城島がマスクをかぶったのは序盤の10試合のみだった。打撃は2008年よりやや持ち直し、71試合の出場ながら打率.247, 9本塁打、22打点。本塁打率ではメジャーに来てから自己最高の数字を残したが、RC27は4.03という低調な数字に終わった。無走者時の打率.290に対し、走者を置いた状況下では打率.188(得点圏打率.184)と大きく数字を落とした。守備面では規定試合数に届かなかったものの盗塁阻止率では自己最高の.537を記録、メジャー通算でも.400としたが、CERAが4.86となり、ロブ・ジョンソンの3.23を大きく上回ってしまった[22]。エースのヘルナンデスは城島とバッテリーを組んだ試合では1勝3敗、防御率7.22, QS率20 % (1/5) だったが、城島以外の捕手と組んだ試合では18勝2敗、防御率1.81, QS率96.6 % (28/29) という好成績を残した[23]。ただし、ヘルナンデスは毎年5月に不調に陥る傾向で[24]、城島が復帰した5月の数試合はちょうどその時期と重なっており、城島が退団した後の2010年もロブ・ジョンソンと組んだがその傾向に変化はなく、月別防御率はむしろ悪化している。

オフの10月19日にはマリナーズとの残り2年間の契約を破棄し、日本球界に復帰する意向であることが発表された[25]。阪神が獲得に動き、やや遅れて古巣のソフトバンクも獲得の意向を示したが、27日の阪神との2度目の交渉で入団の意思を表明した。この時阪神が城島の獲得に至った経緯として、前年までの正捕手矢野輝弘がこの年故障で長く欠場し、代わって正捕手格となった狩野恵輔も送球面などの不安を抱えていたこと、また右打ちの強打者がチームに少なかったことがあり、城島はいずれの補強ポイントにも合致していた[26]。城島自身はこれ以前に『夢空間スポーツ』の自身のコーナーにて「(選手として)バリバリの状態で福岡に戻りたい」、「今の自分があるのはホークスのおかげであり、ユニフォームを脱ぐ時は福岡でホークスのユニフォームを脱ぎたい」と語っており、ソフトバンク球団側も背番号「2」を欠番にし、城島のマリナーズ退団情報を9月中旬に掴んでいた[27]が、この年に26本塁打を放ち飛躍した田上秀則の存在や城島自身の年俸の高騰などのため[28]最終的には獲得を見送り、この後球団は背番号「2」を、この年のドラフト会議で1位指名した、城島にとっては高校の後輩にあたる今宮健太に与えた[29]

阪神時代

2009年11月13日に阪神が入団を発表。年俸4億円+出来高払いの4年契約で、背番号は「2」。

2010年3月26日の対横浜ベイスターズ戦(京セラドーム大阪)で決勝タイムリーヒットを放ち、「長崎県佐世保から来ました城島です」とヒーローインタビューで話した。翌27日の同球場・同カードにおいては延長11回にサヨナラホームランを打ち、ヘッドスライディングでホームインしてみせた。同年は打率.303(リーグ12位)、28本塁打の好記録を残す。10月5日の対東京ヤクルトスワローズ戦ではシーズン165安打目を放ち、1997年に古田敦也が記録した164安打を抜いて捕手のセ・リーグ最多安打記録を更新した。これにより、城島はセ・パ両リーグの捕手最多安打記録保持者となり、自身が所属した2003年のダイエーと2010年の阪神がチーム安打数のリーグ記録を作り、両方の年の規定打席到達者として記録に大いに貢献した。[30]。また、ゴールデングラブ賞を受賞し捕手として史上初のセ・パ両リーグでの受賞となった。しかし、この年の終盤に左膝半月板を負傷していたことが判明し、11月9日に手術を受けた[31]。リハビリ中は後輩の原口文仁から質問攻めにされていた[32]

2011年は左膝の負傷が判明した際の全治6か月という診断を覆して予定よりも早く実戦に復帰し、また3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕日が順延されたこともあって、開幕戦出場を果たした。しかし、膝を保護するために試合で着用していたパッドのため左膝に瘢痕が生じ、これによって膝の可動域が広がらなくなった[33]影響で、38試合出場時点で打率.189, 5本塁打、13打点と打撃不振に陥り、守備面でもショートバウンドの捕球に支障をきたすようになった。膝が万全でないことで右肘の靭帯損傷や腰痛も併発し[34]、6月10日に出場選手登録を抹消された[35]。その後、8月16日に左膝のクリーニング手術を受けたため、一軍に復帰することなくシーズンを終えた。

2012年内野手として出場したが、5月上旬に左坐骨神経痛のため出場選手登録を抹消され、腰椎椎間板ヘルニアの手術を受けた[36]。8月にはリハビリ出場していた二軍戦で左ひざ裏の肉離れを起こした[37]。9月には二軍戦に復帰したものの、捕手に戻るのは絶望的となり、捕手のまま現役を全うしたいという希望から、1年残っていた契約を破棄し、同年限りで引退することを9月28日に表明[38][39][40][41]。まだ一塁手としての可能性は残されていたことから、引退を王に報告した際「現役は一回しかできないのだから、他のポジションで頑張ってはどうか」と言われたが、城島の決意は変わらなかった[38]

監督の和田豊から、9月29日の一軍の対広島東洋カープ戦を引退試合として出場を打診されたが、これを固辞し、同日のウエスタン・リーグにおける対オリックス戦(阪神鳴尾浜球場)が引退試合となった。3番捕手として先発出場し、初回無死一、二塁の場面で中前適時打を放った。直後に代走を送られて退くと、試合中にもかかわらず藤川球児の音頭で胴上げされた[42]。10月18日に任意引退が公示された[43]

現役引退後

引退後は球界から距離を置き、趣味である釣り関連の番組を中心にタレントとして活動している[44]

2013年1月にRKB毎日放送特番として放送され、同年4月21日からレギュラー番組に昇格した自身の冠番組『城島健司のJ的な釣りテレビ』に出演[44][45]。また同年3月より月1回ペースで放送されるテレビ長崎ゴルフ番組『城島健司と金谷多一郎のモア☆ゴル』にも出演している[44]

野球関連では、2013年9月28日に福岡ヤフオクドームで行われた斉藤和巳の引退記念セレモニーにソフトバンクのユニフォーム姿で登場し、斉藤の投球を捕手として受けたほか、2018年3月10日サンマリンスタジアム宮崎で行われた「ジャイアンツvsホークスOB戦」[注 2]に、ダイエーのユニフォームで出場し、19年ぶりに工藤とバッテリーを組んだ[46]

ソフトバンク球団会長付特別アドバイザー時代

2019年12月20日福岡市内のホテルで、福岡ソフトバンクホークス会長付特別アドバイザー就任の記者会見を行った。契約は2020年1月より1年間。2023年度も業務継続[47]

選手としての特徴

守備

盗塁阻止率が高く、卓越した強肩を生かして座ったまま一塁牽制や二塁送球を行うこともあった。これに対して大沢啓二は「肩を痛めるため真似しないほうがいい」と発言しており、実際に城島自身も2005年に座った状態での送球で肩を痛めたことにより、以降は座ったままの送球をしなくなった。マリナーズ移籍後も、投げ急ぐ傾向があることとリリースポイントが不安定なことを指摘され、2007年のスプリングトレーニングでは、素早く投げるのではなく肩の強さを生かして二塁方向に肩を押し出すバランスの取れた投げ方を指導され[48]、同年の盗塁阻止率はメジャートップの数値を記録。阪神に移籍した2010年からは再び座ったままの送球を見せるようになり、「ジョー・バズーカ」と呼ばれるようになった。

当時現役27年目で、数多くの捕手相手に球を投げてきた工藤公康は「キャッチングが一番下手だったのは城島。最後までうまくならなかった」と述べている[49]。MLB時代のキャッチングについて、フレーミングにやや難があり[50]、総合的な守備力を測る守備防御点は通算でマイナスとなっている。

リード面ではストライク先行と初球ストライクをモットーとして挙げ[51]、打者の打てない確率の高いコースと球種で強気に攻め三振を狙った[52][53]

捕手である自らがリードする方針は投手が球種を決めることが主流のMLBの手法と相性が良くなく、当時のマリナーズのエースのフェリックス・ヘルナンデスなどからの不興を買い、「城島が捕手では投げたくない」という投手が増えた。これはマリナーズ時代に契約途中で帰国せざるを得なかった要因とされる[54]。メジャーの味方投手達が城島のリードで最も嫌った類のものは、ボール球を過剰に要求する配球であった[55]

NPB元審判員佐々木昌信は、城島は守備中によく喋る捕手で「ちょっとジャッジに集中させてくれ」と思っていたという[56]

打撃

内角低めの球を得意とする[48]2000年の日本シリーズ第1戦では工藤公康が投じた内角低めの完全なボール球を左手一本ですくい上げ本塁打とした[57]

走塁

一塁到達まで4.7秒と平均を下回り[48]、2010年にはリーグワーストの22併殺打を記録。

日本人でメジャーで初本盗を決めた人物である[58]

人物

釣り愛好家として

幼少の頃から父親とよく釣りにいっており、成人した現在でも海釣り(特に磯釣り)好きであり、現役時代からシーズン中も暇を見つけては釣りに出かけるほどで、釣り関連でのエピソードも数多い。

  • 地元紙・長崎新聞の釣りコーナーや釣り雑誌に「ホークスの城島選手」ではなく「佐世保市の城島さん」として掲載された[59]。また、平戸市の釣り宿・丸銀釣りセンター主催の大会で優勝する[60]など、釣り人としての評価も高い。
  • 九州・中国地方のローカル釣り雑誌『釣ファン』で、過去数回雑誌の表紙を飾っている[61]
  • 福岡ローカルのテレビ局で城島(とその他プロ野球選手数人)の釣りがメインテーマの正月特番(テレビ西日本『城島健司のメジャーフィッシング』、福岡放送『城島&馬原の釣り一番!』)が放送されたことがあるほか、他にも『フィッシングライフ』(サンテレビ他)など多くの釣り番組への出演経験がある。
  • マリンレジャーに関心が高いことから日本水難救済会による『青い羽根募金』のアドバイザーに2009年度から就任した[62]
  • 2011年には福岡市の釣具メーカー「AURA」の商品カタログに登場した[63]

人間関係

ダイエーで監督として仕えた王のことを、「一番ユニフォーム姿が似合って、かっこいい人。野球をしている時の目の輝きが違うし、あの歳になってもあれだけ野球を好きでいられることは凄い。敬遠の時、ボールの動きと一緒に監督も飛び上がっていたくらいですから」と語っている。高校3年在学時に、3段の腕前である[64]書道で好きな言葉を書くことになった際に、迷わず「王」の一文字を書いた。若手の時代には、王から厳しい指導も受けた[65][66]。王も相手が誰であろうとズバズバ物事を話せる城島を将来の監督として、高く評価していたとされる[44]。2020年にソフトバンクの会長付特別アドバイザーに就任した際には王から「イエス、ノーをはっきり言える男だし、選手たちが決断することにプラスになる、選手たちの兄貴分のような存在になってもらいたい」と期待を寄せられた[47]

2009年オフに阪神に入団した原口文仁からは「生きた教材」となり、リハビリ中だった翌2010年オフは原口から質問攻めにされ、城島自身の地元・長崎での自主トレにも同行。球界と距離を置く現在でも連絡を取り合っており、その原口が育成選手から支配下登録選手に昇格して即日1軍昇格をも果たした際には連絡を貰っていた[67]

ソフトバンク球団会長付特別アドバイザーとして

「『捕手が打たなくても良い』は甘え」という持論を持ち、2022年春季キャンプに帯同した際には、「捕手が打たなさすぎる」「セ・リーグは(投手も含め)2人打たないのがいるようなもの」と現役捕手陣の打力に苦言を呈したという。これに対してインターネット上では賛否両論が繰り広げられ、否定派からは「古田敦也阿部慎之助、城島などが活躍した捕手黄金期当時のレベルを現役捕手に求めるのは酷ではないか」という意見が為された。但し城島は高卒3年目1997年に打率リーグ5位の.308を記録し、また1999年にもリーグに規定到達3割打者僅か4名(イチロー、松井稼頭央、城島、ローズ)の内リーグ3位の.306、且つ全試合捕手出場でチーム唯一3割を記録しており、城島自体が「打てる捕手」かつ周りが打てない中でも打ったことも否定できない。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 ダイエー
ソフトバンク
12 13 12 2 2 0 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 4 0 .167 .231 .167 .397
1996 17 62 58 5 14 2 0 4 28 9 1 0 0 0 3 0 1 9 1 .241 .290 .483 .773
1997 120 470 432 49 133 24 2 15 206 68 6 2 4 7 22 1 5 62 15 .308 .343 .477 .820
1998 122 440 395 53 99 19 0 16 166 58 5 2 6 4 27 4 8 67 18 .251 .309 .420 .729
1999 135 539 493 65 151 33 1 17 237 77 6 2 6 1 31 5 8 61 13 .306 .356 .481 .837
2000 84 342 303 38 94 22 2 9 147 50 10 2 5 1 27 2 6 48 13 .310 .377 .485 .862
2001 140 578 534 63 138 18 0 31 249 95 9 4 5 2 31 2 6 55 17 .258 .305 .466 .772
2002 115 463 416 60 122 18 0 25 215 74 8 7 3 6 30 5 8 41 11 .293 .348 .517 .865
2003 140 628 551 101 182 39 2 34 327 119 9 4 2 7 53 10 15 50 22 .330 .399 .593 .993
2004 116 498 426 91 144 25 1 36 279 91 6 5 0 1 49 5 22 45 16 .338 .432 .655 1.087
2005 116 463 411 70 127 22 4 24 229 57 3 4 0 2 33 4 16 32 19 .309 .381 .557 .938
2006 SEA 144 542 506 61 147 25 1 18 228 76 3 1 0 3 20 1 13 46 15 .291 .332 .451 .783
2007 135 513 485 52 139 29 0 14 210 61 0 2 0 2 15 0 11 41 22 .287 .322 .433 .755
2008 112 409 379 29 86 19 0 7 126 39 2 0 1 2 19 1 8 33 12 .227 .277 .332 .609
2009 71 258 239 24 59 11 0 9 97 22 2 2 1 1 12 0 5 28 4 .247 .296 .406 .702
2010 阪神 144 602 554 76 168 29 0 28 281 91 9 5 2 3 27 0 16 53 22 .303 .352 .507 .859
2011 38 144 132 7 25 3 0 5 43 13 0 0 0 2 8 1 2 16 5 .189 .243 .326 .569
2012 24 42 39 4 7 1 0 0 8 5 0 0 0 1 2 2 0 4 4 .179 .214 .205 .419
NPB:14年 1323 5284 4756 684 1406 255 12 244 2417 808 72 37 33 37 344 41 113 547 176 .296 .355 .508 .863
MLB:4年 462 1722 1609 166 431 84 1 48 661 198 7 5 2 8 66 2 37 148 53 .268 .310 .411 .721
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • ダイエー(福岡ダイエーホークス)は、2005年にソフトバンク(福岡ソフトバンクホークス)に球団名を変更

年度別打撃成績所属リーグ内順位















1995 19 パ・リーグ - - - -
1996 20 - - - -
1997 21 5位 - - -
1998 22 - - -
1999 23 3位 4位 - 9位
2000 24 - - - -
2001 25 - - 9位 9位
2002 26 10位 - - -
2003 27 6位 2位 3位 2位
2004 28 3位 10位 6位 5位
2005 29 7位 - - -
2010 34 セ・リーグ - - 8位 7位
2011 35 - - - -
2012 36 - - - -
  • -は10位未満(打率、OPSは規定打席未到達の場合も-と表記)

WBCでの打撃成績

















































2009 日本 9 35 30 4 10 1 0 1 14 4 1 0 1 2 2 0 0 3 2 .333 .353 .467

年度別守備成績



捕手 一塁


































1995 ダイエー
ソフトバンク
9 18 3 1 1 0 .995 5 3 2 .400 -
1996 17 116 9 0 3 0 1.000 11 7 4 .364 -
1997 117 735 76 7 16 10 .991 96 65 31 .323 7 40 0 1 3 .976
1998 106 573 71 8 8 5 .988 82 53 29 .354 11 34 4 0 3 1.000
1999 135 893 81 9 16 3 .991 116 78 38 .328 3 8 0 0 2 1.000
2000 77 462 36 3 6 3 .994 43 27 16 .372 -
2001 140 815 74 6 15 4 .993 92 57 35 .380 -
2002 100 706 66 3 16 8 .996 63 31 32 .508 2 8 1 0 2 1.000
2003 140 1175 90 7 11 7 .994 82 47 35 .427 -
2004 114 828 66 4 15 7 .996 62 34 28 .452 -
2005 108 852 48 3 12 3 .997 63 38 25 .397 5 21 4 0 3 1.000
2006 SEA 144 882 58 7 9 10 .993 86 57 29 .337 -
2007 133 805 56 2 15 5 .998 86 46 40 .465 -
2008 100 632 34 8 8 7 .988 77 52 25 .325 -
2009 70 413 35 1 2 4 .998 41 19 22 .537 -
2010 阪神 144 999 77 9 13 4 .992 63 41 22 .349 -
2011 38 294 34 2 3 4 .994 20 11 9 .450 -
2012 - 8 67 3 0 3 1.000
NPB 1245 8466 731 62 135 58 .993 798 492 306 .383 41 178 12 1 16 .995
MLB 447 2732 183 18 34 26 .994 290 174 116 .400 -
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字 はNPBの捕手における歴代最高
  • NPB時代の太字年ゴールデングラブ賞受賞

表彰

NPB
MLB
  • Baseball Digest ルーキーオールスターチーム(英語版)(捕手部門:2006年)[73]

記録

NPB

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 1イニング2本塁打:2001年4月13日、対オリックス・ブルーウェーブ3回戦(グリーンスタジアム神戸)、9回表に木村昌広岸川登俊から
  • 1試合6安打:2003年7月27日、対オリックス・ブルーウェーブ17回戦(福岡ドーム)、7打数6安打 ※史上8人目[74]
  • 捕手全試合フルイニング出場:2003年 ※史上4人目、2リーグ制後では史上2人目[75]
  • 捕手シーズン182安打:2003年 ※史上最多[76]
    • 捕手シーズン168安打:2010年 ※セ・リーグ記録[77]
  • 捕手シーズン1272守備機会:2003年 ※史上最多[78]
  • 捕手シーズン1175刺殺:同上 ※史上最多[78]
  • 捕手シーズン打率.338:2004年 ※パ・リーグ史上最高
  • 日本シリーズ4本塁打:2000年、2003年 ※シリーズタイ記録
  • オールスターゲーム出場:9回(1997年 - 2001年、2003年 - 2005年、2010年)

背番号

  • 2(1995年 - 2012年)

代表歴

関連情報

出演

CM
テレビ

書籍

2001年『週刊少年サンデー超』5月増刊号(作画:郷間秀敏)、2010年『週刊少年マガジン』12号(作画:関口太郎)の2回、城島の実録漫画が発表された。内容は両作品ともにホークス時代の苦悩と活躍を中心に描かれている。

参考文献

  • 柏英樹『プロ野球選手になるには』ぺりかん社、2009年

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 2004年から2006年の3年間はプレーオフがパ・リーグで導入され、レギュラーシーズンの勝率1位がリーグ優勝ではなくプレーオフを制したチームがリーグ優勝という制度だった。
  2. ^ ホークスのOBが南海・福岡ダイエー・福岡ソフトバンクのユニフォームの混成のためこのような表現となった。
  3. ^ パ・リーグのオープン戦MVP。[68]

出典

  1. ^ “会長付特別アドバイザー就任について”. 福岡ソフトバンクホークス (2019年12月20日). 2022年1月31日閲覧。
  2. ^ a b c 『日本プロ野球偉人伝 vol.13 1997→99編』ベースボール・マガジン社、2014年、34-37頁。ISBN 978-4-583-62103-6。 
  3. ^ “【ドラフト会議物語32】ダイエーが城島を強行指名!王貞治監督の説得で入団へ【94年】”. 週刊ベースボールONLINE (2017年10月1日). 2022年1月31日閲覧。
  4. ^ a b 「根本マジックで城島ダイエー入り/ドラフト回顧録1」『日刊スポーツ』、2019年10月7日。2019年10月7日閲覧。
  5. ^ 【11月18日】1994年(平6) ダイエー“20年に1人の大型捕手”城島健司を強行指名,スポニチ,日めくりプロ野球 Archived 2011年11月26日, at the Wayback Machine.
  6. ^ a b ■人との出会いが育てた日本初のメジャー捕手~城島健司■ 二宮清純 プロフェッショナル列伝 (2023年11月12日閲覧)
  7. ^ 『プロ野球全記録 (2002年版)』、実業之日本社、110頁。ISBN 4-408-61577-3
  8. ^ 「ダイエー・城島が右手指を骨折」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)4月14日付朝刊、20面(スポーツ面)。
  9. ^ 「城島 久々と見せ場 復帰後バント失敗…「打ててよかったー」」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)7月17日付朝刊、20面(スポーツ面)。
  10. ^ 「城島 延長10回 サヨナラ弾 首位に1差」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2000年(平成12年)9月3日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  11. ^ 『2002 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、43ページ。
  12. ^ 『週刊ベースボール』2003年5月5日号、8ページ。
  13. ^ https://npb.jp/award/2003/voting_mvp.html
  14. ^ 『ベースボールマガジン 2004年プロ野球総決算号「激動」』ベースボール・マガジン社、2005年1月1日発行、40ページ、雑誌07915-1。
  15. ^ マニュライフ生命 クライマックス パ 2015年6月7日閲覧。
  16. ^ 『応援ありがとう!2005福岡ソフトバンクホークス激闘の軌跡』ソフトバンククリエイティブ、2005年、30頁頁。ISBN 4-7973-3331-6。 
  17. ^ [1]
  18. ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2007』廣済堂出版、2007年、233頁頁。ISBN 978-4-331-51213-5。 
  19. ^ http://mlb.yahoo.co.jp/headlines/?a=3528
  20. ^ Jim Street / MLB.com, "Mariners keep Kenji through 2011," MLB.com, April 25, 2008. 2009年10月8日閲覧。
  21. ^ Jayson Stark / ESPN.com, "Year-end awards: MVPs and LVPs, Cy Youngs and Yuks ...," ESPN.com, September 27, 2008. 2009年10月8日閲覧。
  22. ^ Seattle Mariners Fielding Statistics - 2009, ESPN
  23. ^ http://sports.espn.go.com/mlb/players/gamelog?playerId=6194
  24. ^ http://espn.go.com/mlb/players/gamelog?playerId=6194
  25. ^ Mariners catcher Kenji Johjima opts out of final two years of contract, Mariners.com(英語)、2009/10/19
  26. ^ 「城島獲得」へ阪神球団が1番に名乗り 日刊スポーツ、2009年10月21日。
  27. ^ http://www.nishinippon.co.jp/nsp/hawks/item/130987
  28. ^ [2] 報知新聞、2009年10月28日。
  29. ^ [https://sports.yahoo.co.jp/m/column/detail/200912100001-spnavi “鷹の象徴を継承した“小さな巨人”今宮 鷹詞2009〜たかことば〜”]. スポーツナビ. https://sports.yahoo.co.jp/m/column/detail/200912100001-spnavi 2020年6月22日閲覧。 
  30. ^ “【虎戦士回顧録、あの時は…】城島健司氏 36歳電撃引退の真相 4億の契約残して決断”. デイリースポーツ online (2020年3月29日). 2022年3月25日閲覧。
  31. ^ 城島 来季開幕絶望的…左ひざ手術で復帰まで半年 スポーツニッポン、2011年6月10日。
  32. ^ 虎46年ぶり3戦連続完封!原口、驚異の防御率0・88リード サンケイスポーツ、2016年5月7日。
  33. ^ 城島、虎戦士にざんげ…リハビリ再開 デイリースポーツ、2011年9月3日。
  34. ^ 城島、今季絶望…再度左膝手術 デイリースポーツ、2011年8月17日。
  35. ^ 阪神・城島が抹消…右肘治療に専念 デイリースポーツ、2011年6月10日。
  36. ^ 城島ヘルニア手術「選手として症状重い」 日刊スポーツ、2012年5月17日。
  37. ^ 城島が左膝裏肉離れ…今週中安静 日刊スポーツ、2012年8月22日。
  38. ^ a b 城島4億円返上 今日2軍で最後のマスク 日刊スポーツ、2012年9月29日。
  39. ^ 【阪神】城島が現役引退を表明 日刊スポーツ、2012年9月28日。
  40. ^ 「捕手できず辞める」/城島引退 日刊スポーツ、2012年9月28日。
  41. ^ 城島引退「精いっぱいのけじめ」/一問一答 日刊スポーツ、2012年9月28日。
  42. ^ 城島 最初も最後も中前打「野球人として悔いはない」 スポーツニッポン、2012年9月29日
  43. ^ “2012年度 任意引退選手”. 日本プロ野球機構 (2012年10月18日). 2012年10月23日閲覧。
  44. ^ a b c d 城島健司(元ダイエーほか)が指導者にならない驚きの理由とは? マイナビニュース 2015年12月22日、2016年3月8日閲覧。
  45. ^ “城島健司のJ的な釣りテレビ”. RKB毎日放送. 2014年8月17日閲覧。
  46. ^ 巨人がホークスに快勝
  47. ^ a b “ソフトバンク、城島健司氏の特別アドバイザー続投を発表 04年ドラ1江川氏は退団”. Full-Count. (2020年12月25日). https://full-count.jp/2020/12/25/post1012086/ 2020年12月25日閲覧。 
  48. ^ a b c 現役スカウト部長による“本物”のスカウティング・レポート『月刊スラッガー』2007年6月号、日本スポーツ企画出版社、2007年、雑誌15509-6, 18-21ページ。
  49. ^ 二宮清純『プロ野球の一流たち』講談社、2008年、150-161頁。ISBN 978-4-06-2879415。 
  50. ^ “Removing the Mask Encore Presentation”. Baseball Prospectus. 2014年2月13日閲覧。
  51. ^ デイリースポーツonline
  52. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』白夜書房、2005年、27頁。ISBN 4-86191-015-3。 
  53. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2011』白夜書房、2011年、999頁。ISBN 978-4-86191-710-3。 
  54. ^ 外国人捕手はなぜ少ない?中日アリエル・マルティネスにかかる期待 FRIDAY DIGITAL 2020年07月09日 (2020年11月22日閲覧)
  55. ^ 元巨人・クロマティ氏が選ぶ日本人打者歴代トップ10(2/3ページ) iZa 2019/1/18 20:07 (2022年9月18日閲覧)
  56. ^ 元審判員が選ぶ「印象に残る名捕手5人」。キャッチングNo. 1や球界一の強肩、仏と評された選手は?|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
  57. ^ “スポーツ21世紀人・城島健司(上)”. 報知ベースボールパーク. 2001年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月30日閲覧。
  58. ^ “大谷翔平初のホームスチール! ベーブ・ルースは成功8回、失敗7回”. 日刊スポーツ (2021年9月1日). 2023年1月1日閲覧。
  59. ^ 「城島健司さん(佐世保市)」が突然長崎新聞の釣り欄に登場
  60. ^ 第22回 丸銀ダービー 大会結果発表丸銀釣りセンター 2023年3月4日閲覧
  61. ^ 商品「釣ファン2008年1月号」の詳細など
  62. ^ 日本水難救済会 青い羽根募金 日本水難救済会オフィシャルサイト
  63. ^ AURA Catalog 2011 pp.30 - 31
  64. ^ TBS『ZONE』2000年10月26日放送
  65. ^ “【10月28日】1999年(平11) 笑顔、笑顔、また笑顔 福岡ダイエー涙なしの初の日本一”. Sponichi Annex. (2010年10月28日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10october/KFullNormal20101001227.html 2014年3月27日閲覧。 
  66. ^ ソフトB王会長、松中に温情見せず 日刊スポーツ、2013年6月16日。
  67. ^ “虎46年ぶり3戦連続完封!原口、驚異の防御率0・88リード”. サンケイスポーツ. (2015年5月7日). https://www.sanspo.com/article/20160507-PQIQPGEE6RJRZGDS7MIDJIVOQI/2/ 2016年5月9日閲覧。 
  68. ^ 『1998 ベースボール・レコード・ブック』ベースボール・マガジン社、1997年12月、41ページ。
  69. ^ “大関魁皇関に対する県民栄誉賞贈呈について” (PDF). 福岡県新社会推進部県民文化スポーツ課. 2017年9月8日閲覧。
  70. ^ “福岡市スポーツ栄誉賞”. 福岡市 健康づくり・スポーツサイト. 福岡市. 2017年9月8日閲覧。
  71. ^ “佐世保市市民栄誉賞受賞者” (PDF). 佐世保市. 2017年12月4日閲覧。
  72. ^ “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). https://www.sanspo.com/gallery/20161122-JEYGFEERFFNUPIAFIRRQJ3A66A/ 2017年9月8日閲覧。 
  73. ^ Baseball Digest Rookie All-Star TeamsBR Bullpen 2015年9月16日閲覧。
  74. ^ “【中日】大島洋平、1試合6安打!セ・リーグタイ記録!球団史上初の快挙 なおドラゴンズは…”. スポーツ報知. (2022年8月3日). https://hochi.news/articles/20220803-OHT1T51259.html?page=1 2022年8月4日閲覧。 
  75. ^ “炭谷挑戦!捕手ノムさん城島だけのフルイニング出場”. (2019年1月12日). https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/201901120000039_m.html 2022年7月28日閲覧。 
  76. ^ “城島も新記録!捕手のセ・リーグ最多安打”. (2010年10月6日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/10/06/kiji/K20101006Z00002380.html 2022年7月28日閲覧。 
  77. ^ “田中将大はどうなる? メジャーから日本球界に復帰した男たちの明暗”. sportiva (2021年2月10日). 2022年7月28日閲覧。
  78. ^ a b “城島 美学貫き涙の会見「キャッチャーのまま引退」”. (2012年9月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/29/kiji/K20120929004215300.html 2022年7月28日閲覧。 

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、城島健司に関連するカテゴリがあります。
  • 個人年度別成績 城島健司 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
  • 城島健司のJ的な釣りテレビ
  • 城島健司ベースボール記念館 オフィシャルサイト!!
 
業績
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグMVP
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
パシフィック・リーグ ベストナイン(捕手)
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
投手 - 捕手
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
  • 20-21 中止
 
日本の旗 野球日本代表
日本の旗 野球日本代表 - 2003年アジア野球選手権大会 1 1位
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2004 アテネオリンピック 33位 銅メダル
監督
コーチ
  • 31 高木豊(守備・走塁)
  • 32 大野豊(投手)
投手
捕手
内野手
外野手
日本の旗 野球日本代表 - 2009 ワールド・ベースボール・クラシック 1 1位 優勝
監督
コーチ
投手
捕手
内野手
外野手
福岡ダイエーホークス - 1994年ドラフト指名選手
指名選手
典拠管理データベース ウィキデータを編集
全般
  • ISNI
  • VIAF
国立図書館
  • 日本