松平義春

 
凡例
松平 義春
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 右京亮、甚太郎(甚九郎)
氏族 東条松平家
父母 父:松平長親
兄弟 信忠親盛信定義春、阿部忠親、利長
忠吉、忠茂本多広孝正室
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松平 義春(まつだいら よしはる)は、戦国時代の武将三河国松平氏宗家5代松平長親(長忠・出雲守・道閲)の子。右京亮、甚太郎(甚九郎とも)。東条松平家の祖。初め通称を甚太郎と称したとされるが同時代文書では未確認。江戸時代大久保忠教著『三河物語』では甚太郎と表記されている。また、「松平右京亮義春」名では後世に記されたいくつかの史書・記録に見られるが、判物等の同時代文書では殆ど例を見ない。

略歴

東条吉良家の跡目・後見について

義春は東条松平家の初祖とされるが、三河幡豆郡吉良庄斑馬(現在の西尾市吉良町駮馬)の東条城の5代目当主吉良義藤が同族の西条吉良義真応仁の乱の折に合戦に及び敗北、出奔したが義藤の嫡男・吉良持清が幼少であったのでその跡目を継いだ、あるいは持清の後見人となったことから東条の名を冠したとされる。しかし、その事実を伝える確かな資料には乏しくまた長兄・信忠延徳2年(1490年)誕生とされるため応仁・文明の戦乱期(1467年-1477年)と思われる義春の東条吉良家跡目・後見の両説は疑問であり伝承としての性格が強い[1]

義春名義の文書は大永3年(1523年)9月19日付で出した当時三河幡豆郡に属した羽角村(現・西尾市内)の羽角馬頭天王社宛の寄進状がある。(同郡六栗村花籠(現・額田郡幸田町)よりの永楽銭20貫文を進納)。岡崎市の中島から羽角・野馬・六栗を縦貫する道、中島道は中世以来の道とされ、この地域はかつて幡豆郡に属し東条吉良氏の支配地域であったとされる。このことから義春は東条吉良領内にその所領もしくは知行を有していたと推定される(「幡豆神社誌」)[2]

一般的には同国碧海郡の青野城に在住したとされるがこちらも資料に乏しく、近隣の下和田の所領係争において、今川義元が義春の嫡子・松平忠茂に宛てた弘治2年(1556年)9月2日付文書で父右京亮の代からの所領として安堵がなされたことが知られ、訴訟の相手、桜井の松平家次(監物)が敗訴している[3]

兄・信定との対立

義春の主要な事績としては、「三河物語」等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を義春の次兄の桜井松平信定が長兄の信忠と争い、信忠隠退後もその嫡子清康から8代広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。そして「三河物語」はさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。 同物語では、内膳殿(信定)が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする[4]。 (なお、松平信定は天文7年(1538年)11月27日に死去と知られている。)

嫡子・忠茂の伝との混乱

また、後代成立の諸書に松平義春が弘治2年(1556年)2月20日三河国額田郡形野村(現・岡崎市桜形町)の日近城の奥平貞直(久兵衛尉)を攻めた際、戦死した(城兵の放った矢(銃弾とも)にあたり重傷を負い家臣に背負われて退却の途中、近接地の大林で絶命した)と伝える。しかしこれは、嫡子忠茂の伝を誤ったものと現在では確定され、義春については前節の通り三河物語で記述の「両方とも相前後して病死」という死没時期が相応しい。なお義春・忠茂父子は共に通称を甚太郎と称していたとされ、忠茂が若年で戦死したため義春一代の事績として誤伝されたと思われる[5]

葬地・法名等

  1. 葬地、三河国幡豆郡吉良庄斑馬(現・愛知県幡豆郡吉良町駮馬)の法応寺(廃寺)及び碧海郡上青野(現・岡崎市上青野町)の来迎寺[6]。但し、『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』平凡社、1981年は「上青野村」の項にて『六ッ実村史』を引いて、来迎寺への埋葬は日近合戦で戦傷死した義春の遺命によるとしているが、観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年は「観泉寺今川文書」によって日近合戦で死んだのは義春の子忠茂とあるため、被葬者は松平忠茂の可能性がある。
  2. 法名、青厳顕松または貞巖顕松[7]
  3. 東条吉良氏としての官名・法名がある(「上矢田養寿寺蔵・吉良氏系図」)[8]。すなわち東条宮内少輔、善念寺殿。但しこれらは松平義春のものとは考えがたいが、義春が吉良氏と全く関係ないとも言い切れない。

系譜

  • 父:松平長親
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 長子:某(忠吉とも・通称を甚二郎または甚次郎とも) - 初めは甚次郎が家督を継いだがのち今川氏に反抗して出奔、弟忠茂に家督を取って代わられた。東条領饗庭を本知としこれ以外にも西三河に若干の所領が確認される。庶兄扱いされるが嫡庶については不明。
    • 次子:忠茂(通称は甚太郎) - 天文20年(1551年)家督相続の後、弘治2年2月20日戦死(上述)。
    • 女子:本多広孝正室 - 本多康重を生む。

脚注

  1. ^ 中村孝也『家康の族葉』(講談社、1965年)において著者の中村孝也は義藤の跡を受けて吉良東条家の第6代を義春が継いだとするが、鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞本社、1998年)(鈴木氏はまた、東条吉良氏菩提寺である花岳寺 (愛知県)の現住職である)は、同書 81 - 82頁にて、義春は持清の後見であったという伝承を松平家忠(東条)の代に言ったものだとしている
  2. ^ 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名 』(平凡社、1981年)716頁・「下六栗村」の項
  3. ^ 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年)192 - 193頁
  4. ^ 大久保忠教(原著)小林賢章 訳『三河物語(上)』<教育新書-原本現代訳11>、教育社、1987年、128 - 129頁。
  5. ^ 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年、544 - 546頁の記述、および同書所収の「弘治2年2月27日付(松平亀千代宛)今川義元安堵判物」・「弘治2年9月2日発給、(松平亀千代宛)今川義元裁許判物」(いずれも観泉寺今川文書)
  6. ^ 中島次太郎『徳川家臣団の研究 』国書刊行会、1981年、299頁
  7. ^ 下青野町柳原の撫松山慈光寺の所蔵文書「永禄7年松井忠次寄進状」、これと思しき法名の人物の菩提のために、忠次が法要を捧げたことが窺える。慈光寺文書は新編岡崎市史編さん委員会編 新編岡崎市史 6 古代中世史料編 』岡崎市、1983年「永禄7年欠月25日発給、慈光寺宛松井左近忠次寄進状」(由緒書上)による。
  8. ^ 青山善太郎『西尾町史(上)』(国書刊行会、1988年、吉良義春の項、244頁)

参考文献

  • 中村孝也『家康の族葉』講談社、1965年
  • 鈴木悦道『新版 吉良上野介』中日新聞本社、1998年、ISBN 4-8062-0302-5 C0021
  • 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名』平凡社、1981年、ISBN 4-582-49023-9
  • 平野明夫『三河松平一族』新人物往来社、 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021
  • 大久保忠教(原著)小林賢章 訳『三河物語(上)』<教育新書-原本現代訳11>、教育社、1987年
  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』吉川弘文館、1974年
  • 中島次太郎『徳川家臣団の研究 』国書刊行会、1981年
  • 新編岡崎市史編さん委員会編 新編岡崎市史 6 古代中世史料編 』岡崎市、1983年
  • 青山善太郎『西尾町史(上)』国書刊行会、1988年、ISBN 9784336012449
東条松平家初代当主
松平郷 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 尚栄 重和 信和 親貞 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 信博 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫
宗家 信光 竹谷 守家 守親 親善 清善 清宗 家清 忠清 清昌 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信
宗家 親忠 大給
宗家 長親 宗家 信忠 宗家 清康 広忠 家康 徳川氏
三木 信孝 重忠 忠清 断絶
鵜殿 康孝 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎
福釜 親盛 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶
桜井 信定 清定 家次 忠正 忠吉 家広 忠頼 忠重 忠倶 忠喬 忠名 忠告 忠宝 忠誨 忠栄 忠興 忠胤 忠養
東条 義春 忠茂 家忠 忠吉 断絶
藤井
滝脇 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 信孝 信治 信嵩 昌信 信義 信圭 信友 信賢 信進 信書 信敏 信成 信広 信鑰 宏光 平人
形原 与副 貞副 親忠 家広 家忠 家信 康信 典信 信利 信庸 信岑 信直 信道 信彰 信志 信豪 信義 信正 信興 信美 忠正
大草 光重 親貞 昌安 昌久 三光 正親 康安 正朝 正永 断絶
五井 忠景 五井 元心 信長 忠次 景忠 伊昌 忠実 伊耀 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠質 忠凱 弘之助
深溝 忠定 好景 伊忠 家忠 忠利 忠房 忠雄 忠俔 忠刻 忠祇 忠恕 忠馮 忠侯 忠誠 忠精 忠淳 忠愛 忠和 忠威 忠諒 忠貞
能見
長沢 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 政忠 康忠 康直 松千代 忠輝 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠敏 忠徳