紀元前195年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前210年代 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 |
年 | 前198年 前197年 前196年 紀元前195年 前194年 前193年 前192年 |
紀元前195年(きげんぜん195ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元559年、マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウスとルキウス・ウァレリウス・フラックスが執政官の年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
カルタゴ
- カルタゴの行政と立法を改革したため、ハンニバルはカルタゴの一部の貴族の不興を買い、また共和政ローマからもセレウコス朝の王アンティオコス3世を扇動してローマに反抗させたと非難された。ローマはカルタゴにハンニバルの引き渡しを要求したが、ハンニバルは自ら国外に亡命した。
セレウコス朝
- ハンニバルがアンティオコス3世によってエフェソスに匿われ、その相談相手になると、アンティオコス3世とローマの間の緊張が高まった。
- ローマの外交官が干渉すると、アンティオコス3世はプトレマイオス朝との戦争を中断した。平和条約によって、アンティオコス3世は公式にシリア南部の領有を認められ、アナトリアのエジプト領土も手に入れた。
共和政ローマ
- カトがヒスパニアで決定的勝利を収めた[1]。ヒスパニアの原住民の反乱を屈服させ、グアダルキビール川まで勢力を広げた。
- オッピウス法の廃止が護民官によって提案されたが、同僚護民官の反対にあった[2]。紀元前215年に成立した、女性に高価な金の所持や紫の服の着用、市内での馬車の利用を禁止した法で、カトも廃止に反対したが、女性が反対派護民官を取り囲む騒動に発展して結局廃止された[3]
- プロコンスル(前執政官)クィントゥス・ミヌキウス・テルムスが帰国し、ヒスパニア・キテリオルでの成功を凱旋式で祝った[4]。
- グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前203年の執政官)、マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前196年の執政官)らからなるレガトゥス(使節)がカルタゴへ送られた[4]。
ギリシア
エジプト
- ギリシアの批評家、文法学者であるビザンティオンのアリストパネスがアレクサンドリアの司書長になった。
中国
朝鮮
誕生
「Category:紀元前195年生」も参照
死去
「Category:紀元前195年没」も参照
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
- Phyllis Culham (1982). “The "Lex Oppia"”. Latomus (Société d'Études Latines de Bruxelles) 41 (4): 786-793. JSTOR 41532685.
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、紀元前195年に関連するカテゴリがあります。