細川利永

 
凡例
細川 利永
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 文政12年1月24日(1829年2月27日
死没 明治34年(1901年4月19日
改名 綱之助(幼名)→利永
墓所 東京都品川区北品川の東海寺妙解院
官位 従五位下、若狭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂慶喜
肥後肥後新田藩(高瀬藩)主
氏族 細川氏
父母 父:細川利愛、母:山川氏
養父:細川利用
兄弟 利正、利永、倫親
正室:宇津忠誠の娘
側室:玉島(宇津氏)
利義、水野忠宝、他男子3名、娘(戸田康泰正室のち細川利文正室)
養子:利祐利文
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細川 利永(ほそかわ としなが)は、肥後肥後新田藩(高瀬藩)の第10代(最後)の藩主。

生涯

文政12年(1829年)1月24日、第8代藩主・細川利愛の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)5月に従兄で第9代藩主の利用の養子となり、安政3年(1856年)7月21日に利用が隠居したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、若狭守に叙任する。

元治元年(1864年)4月、神田橋御門番、慶応元年(1865年)7月、佃島砲台警備などを務めた。慶応4年(1868年)7月25日、藩名を高瀬と改名する。明治2年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めた。明治3年(1870年)9月4日、廃藩となり、その所領は本家熊本藩に合併された。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。

明治34年(1901年)4月19日に死去した。享年73。

栄典

家族

父母

子女

養子

脚注

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  1. ^ 『官報』第5335号「叙任及辞令」1901年4月19日。
  2. ^ 細川利文 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 華族細川利永妻宇津錫子之肖像『華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第2編 』横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
  4. ^ 熊本県士族。
  5. ^ 名はなみこ、1866年生まれ
  6. ^ a b 細川利文 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

注釈

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  1. ^ 初名は玉島。最初は利永の側室。後に本妻となる。[2][3]
  2. ^ 利文の妹は明治天皇の側室・園祥子。利文は学習院と東京専門学校に学び、明治天皇の皇女・常宮と周宮の御用掛を経て、御歌所參候を務めた[6]。その長男は細川利寿(1890-1946)、次男・利功(1896年生まれ)は子爵・長岡護美の死跡を相続し、長岡護孝と改名した[6]

外部リンク

  • 華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第1編、第2編横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
高瀬細川家初代
1884年 - 1901年
次代
細川利文
細川向かい松 高瀬細川家第10代当主(1856年 - 1901年) 細川九曜紋
宗家
京兆家(事実上の宗家)

分家・支流

典厩家
野州家
讃州家
和泉上守護家
長岡刑部家
細川興増男爵家
和泉下守護家
備中守護家
淡路守護家
遠州家
奥州家
肥後細川家
細川侯爵
長岡内膳家
細川忠穀男爵家
  • 長岡忠隆
  • 忠春
  • 忠重
  • 忠英
  • 忠昌
  • 忠虎
  • 忠寿
  • 忠顕
  • 細川忠穀
  • 忠雄
  • 忠督
  • 和彦
宇土細川家
高瀬細川家
谷田部細川家
細川氏肥後新田藩、のち高瀬藩