野田俊作

曖昧さ回避 この項目では、政治家で実業家の野田俊作について説明しています。同名の精神科医・心理学者については「野田俊作 (精神科医・心理学者)」をご覧ください。
1932年(昭和7年)頃

野田 俊作(のだ しゅんさく、1888年明治21年)5月14日1968年昭和43年)7月27日)は、日本政治家実業家衆議院議員、貴族院議員、参議院議員福岡県知事

来歴・人物

福岡県出身。衆議院議員・野田卯太郎の長男として生まれる。1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学経済学科を卒業。南満洲鉄道に入社した。

1924年(大正13年)5月の第15回総選挙で千葉県第九区から政友会公認で出馬して初当選。1927年(昭和2年)に父が死去すると、翌年2月の第16回総選挙では父の地盤だった福岡県第三区から出馬し当選。以後1937年(昭和15年)4月の第20回総選挙まで連続6回の当選を果した。この間犬養内閣鉄道参与官鉄道会議議員、廣田内閣の司法政務次官、政友会総務などを歴任する。

1943年2月、経営不振に陥っていたプロ野球球団大洋軍(後の大洋ホエールズとは無関係)を西日本鉄道に移管する斡旋役を担った[1]

戦後は1946年(昭和21年)1月に福岡県の官選知事に就任し、同年10月まで在任。同年3月22日には貴族院勅選議員に勅任され[2]、研究会に属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止までこれを務めた。その他、朝鮮紡織・満州製麻・日本電報通信社の各取締役西日本新聞社監査役などを歴任。

1947年(昭和22年)4月の第1回参院選では福岡県選挙区からに出馬し当選。その後、第3回参院選では緑風会から出馬して再選し、第5回参院選では自民党公認で出馬して三選、参議院議員を3期18年務め、その間参議院外務委員長を務めた。次の参院選へは出馬せずに政界を引退。1965年(昭和40年)春の叙勲で勲一等瑞宝章受章(勲三等からの昇叙)[3]。その後は自民党相談役やテレビ西日本顧問などを務めた。1968年(昭和43年)7月27日、80歳で死去した。死没日をもって勲一等旭日大綬章追贈、正五位から正三位に叙される[4]

親族

脚注

  1. ^ プロ野球の大洋軍が西鉄所属に 昭和18年2月6日 西日本新聞(夕刊)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p714 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  2. ^ 『官報』第5757号、昭和21年3月26日。
  3. ^ 『官報』第11513号14頁 昭和40年4月30日号
  4. ^ 『官報』第12487号15-16頁 昭和43年7月30日号

参考文献

  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
議会
先代
佐藤尚武
日本の旗 参議院外務委員長
1949年 - 1950年
次代
櫻内辰郎
官職
先代
曽我梶松
福岡県の旗福岡県知事
官選第37代:1946年
次代
西岡広吉
日本の旗 参議院外務委員長 (1949年-1950年)
第1回
(定数6)
3年議員
偶数回
定数3
第2回
第4回
第6回
第8回
第10回
第12回
第14回
第16回
定数2
第18回
第20回
第22回
定数3
第24回
第26回
奇数回
定数3
第3回
第5回
第7回
第9回
第11回
第13回
第15回
定数2
第17回
第19回
第21回
第23回
定数3
第25回
↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:補欠選挙で当選。